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日記 やねうら われおかき ラヂオ 紙縒
 
上  井  紙  縒  日  記
 
 
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ロシア日記抄
月十七日
学習塾が続く。大きな山は越えたものの残り五日ほど続く。異国の行き先は未だ決まらない。一日のうちにも幾度も心変わりをするので我ながら呆れる。英語を学ぶにはインドで学校へ通うのが一番であるように思う。しかし今の夏疲れをしている私はインドに耐え得るだろうか。オーストラリア。今の私の英語では話す機会は少ないのではあるまいか。韓国。インドほどには英語を話さないだろう。台湾もまた然り。モンゴル及びウズベキスタン。異国としては惹かれるけれどもやはり今は英語を学ばないことには数箇月のちの私が後悔すると思われる。こうして並べて見るに、インドへ行く覚悟があるか否か、全てはこの一点である。
 
月二十三日
学習塾掛けるの二。台風が遣って来たので二つ目は休みとなった。疲れを取るべく二時間の仮眠。のちインド行きの飛行機を手配する。これで何事もなければ五日のちには経由地のシンガポール、六日のちにはインドにいることになる。けれども毎回飛行機に乗るまでは、かの地に足を附けるまでは、何か故障が入るのではあるまいかと私はそれを恐れる。恐れているとそれを引き寄せそうでもあるし浮かれていると罰を蒙りそうでもあるし、故に私はこの期間を無を装って遣り過ごす。
 
月二十七日
出発前日。学校と宿を決める。荷造りまで手が廻らず現在二十六時前。何処かから一日を借りたい処である。
 
月二十九日
朝八時。バンガロールの空港に着く。査証を得るのに二時間。のち乗合いに揺られること一時間半市内へと向かう。広告などを眺めるにこの町の適正な価格は日本の十分の一、異国より来た人間が同じ価格を得るのは難しかろうことを思えば五分の一くらいであろう。おかしな処で降ろされたのでそこから自動三輪を捕まえ宿に辿り着く。夕刻同宿しているオマーンの男に誘われ町へ出る。君のインドでの初めての食事なのだからと決して一人では入らないような立派な店に私を連れて行き、何とかカーニバルと云う景気の良い名前の附いた肉の盛り合わせや、更に品書きの高そうな処より二つ三つ註文し、飲み物を幾つかと、最後は何か甘いものでも食べようなどと云い出したので私は慌てて卓子の下で算盤を弾いた。半ばより私は彼を少し怪しみ始めたけれども彼は私の財布を拒み全てを支払ったのだった。指には宝石と銀を組み合わせたと云う指輪を嵌め、多くの食べ物を残し、釣りは確かめもしない。石油の力を見た思いがする。
 
月三十日
十時間ほど眠り爽やかな目覚め。午後学校を目指して歩く。大きな食品店で水を、その前にあるパン屋で揚げバナナを買う。食品店では釣り銭と飴玉を呉れたので洒落た店だと思っていると切らしている一ルピー硬貨の代わりがその飴玉なのだった。メロディーと云う名のキャラメルで詰まりは一メロディーが一ルピーと云う訳である。学校までは北へ歩いて三時間。紙二枚の試験を受けて三時間歩いて帰る。途中野良犬、野良牛、野良山羊、それから悪魔のような顔で干からびて死んでいる子犬、そしてそれを啄ばむ鴉を見る。夜雨が降り出したので宿に籠り本を読む。二段寝床で私の下に眠るのは私の解釈が正しければデリーより来たテレビ局の副社長であると云う。
 
月三日
六日目。英語学校の初日。歩いて三時間の学校は乗合いに揺られること四十分であった。うち二時間は英文法、更に次の一時間は別な生徒もあったために実質二時間ではあったけれどもこれまでにないくらいに沢山英語を話した。夜同宿しているフランスの男に誘われ酒場へ行く。インドでフランスの男と酒を飲みながら話をしているのだと、気が附けば酒場の上より眺めているときがあるので私は何度も自分の視点を一人称に戻した。ロンドンにいた頃も大英博物館の喫茶席でコスタリカの娘さんと食事をしながら話しているとき、やはり私は同じ作業を何度も施したのだった。今日はこれまで生きた中で最も英語を聴いたのではなく話した一日であった。明日からはこうした時間が更に増えることになる。
 
月四日
学校二日目。乗合いが来なかったので自動三輪を捕まえる。歩いて三時間、乗合いで四十分の処が、十五分で着いた。九時より五時間の個人授業。初めて見る先生は九時十分に現れた。六十六歳になるインドの親爺は、やあ君が生徒か、宜しく、ぼくは毎日九時十分に来るからね、少し遠い処に住んでいるんだよ、君は何処から来ているの、へえそんな処から、じゃあぼくと同じくらいの距離だね、でも方向が違うね、ぼくはこっちから来ているからね、君も知っているだろう、この辺は渋滞が酷いからね、ぼくは毎日八時四十五分には家を出るんだけどね、それでもこの時間になるんだよと云う。八時三十分に家を出ると云う考えはないらしい。今日は一つ面白い暗号があった。昨日フランスの男が仕立屋を見附けたと云う話をした。その店では英語が通じないらしい。そこで店員が着ていた服を着てみると、肩幅も胸廻りも腰廻りもぴったりで、ただ袖だけが長かったので袖の長さを詰めて貰い、何日かのちには出来上がるのだと話した。今日九時十分の先生が単語の意味を話していて、そうだね、これは、例えば服を着て、肩もぴったり、腰もぴったり、でも袖の長さだけが違う、ね、それで袖の長さを合わせる、そう云う意味なんだよと云った。ここまで見事に合うと云うのも面白いものである。
 
月九日
日曜日。屋上にて運動二十数種。初めて洗濯をする。屋上の縁に蟻の通り道がある。彼らは擦れ違うごとに前足を絡み合わせ何やら話をしている。夜同宿の力士のような腹をしたインドの男と話をする。数日前より大きな腹で転がっているだけなのでただの怠惰な男かと思っていると大学生に高等数学を教える教師なのだそうである。この宿には出逢いがある。例の副社長と云う男も仕事でドバイへ飛んでいる処を見ると強ち嘘でもないらしい。
 
月十一日
学校。五時間の会話。私は今三人の先生に教わっている。そのうちの二人は話好きであるので私は話の主導権を取り戻すべく戦わねばならない。学校が引けたのちルソー『告白』を読み始める。どうも似た処があるので恐らくは時間を掛けて読み込むことになるだろう。現在二十四時。宿のまわりを歩きながら日記を書いている。私はロシアにいた頃も宿の前を歩きながら日記を書いたものである。同じ宿の男たちが、お前の歩きっぷりはまるで日本の大統領のようだと囃していたのを思い出す。
 
月十四日
私の二人目の先生、詰まり十一時から十三時までの先生は同い年の女性である。イスラムを信仰するため頭に布を巻いている。私たちの話柄は哲学や宗教で、これまでの話からこの男には話しても良いと思ったものか、今日彼女は家族のほかには話したことがないと前置きをしてこんな話をした。今から七年八年前もともと貧血の気味があった彼女は教室で気を失った。これは只事でないと学校の先生たちは彼女を病院へと運んだ。のちに聴いた話によると彼女の心臓は力を失いやがて止まったそうである。彼女が意識を取り戻したのは病院の寝床の上で、視界は一人称として天井を眺めながら、左右には医師が一人と看護の者が二人、足もとには学校の先生たちが泣いているのを見たのではなく感じていたそうである。やがて彼女は右手に何かを感じた。それは何者かの手であって、彼女はその手に引かれながら一歩一歩斜め上へと連れて行かれたそうである。私は今でもその手の温もり、感触を憶えていて、それを感じながら話しているのよと彼女は云った。彼女の手を引くのは大きな人で、彼女はまるで子供が大人に引かれて行くように、その後ろ姿は腰辺りまでしか見えなかったそうである。それは圧倒的に眩しい光で彼女を一歩一歩引いて行く。足はあったのですかと訊くと、だって人だからと云った。彼女は引いて行く人に、私はまだそっちに行くことは出来ない、私には小さな子供がいるし面倒を見なければならない親もいる、私が行って仕舞ったら一体彼らはどうなるのか、もう少し時間が経てば構わないけれども今は行くことは出来ないと何度も何度もお願いすると、不意に彼女を引く手は離され、彼女の右手はだらんと落ちた。そのとき心臓は再び動き始め、そこから彼女は十数時間眠り続けたそうである。この話より導けるのは、一、この世界には命を司る何者かがいるかも知れないと云うこと。二、その何者かに懇願すればときには受け入れられると云うこと。三、優しく手を引かれると云う状況から鑑みて、次の世界もそう悪くはなさそうだと云うことである。
 
九月十六日
穏やかな朝。二階の軒先にて読書。花売りや野菜売りが声を上げて通る。小さな姉妹が遣って来る。お姉さんは背中に水を担いでいる。妹は道の真中に引かれた白い線を辿るのに夢中である。こうした他愛もない景色、けれども人間の何か本質のようなものを含んだ景色は私を惹き附ける。三階の屋上にて運動及び洗濯。陽気な笛の音が聴こえる。道を覗くと大きな山羊を従えた道化師のような男が笛を吹きつつ遣って来る。向かいの家の扉が閉まる。やがて大きな山羊と男は向かいの家の扉の前でぴーひゃらりと笛を吹く。ぴーひゃらりぴーひゃらり。恐らくこの山羊と男は或る種の物乞いなのだろう。暫くして笛が止む。どうしたろうと道を覗くと、男は道の脇にあるがらくたの山のなかから服を一枚見附け出してしげしげと眺めている。やがて笛が鳴り出した。ぴろぴろぴろり。ぴーひゃらり。心なしか笛の音も快さげである。
 
月十七日
学校。数日前より私は親爺の授業を受けるのを止め、二人目、五人目、六人目の先生に附いている。六人目の先生は面白い。彼女の日課は学校が引け家へと帰る道すがら野良犬たちに煎餅を与え歩くことである。高尚なことや大きなことを口にする人は多い。けれどもこうして人知れず鞄に煎餅を忍ばせる人のほうが魅力的ではなかろうか。
 
月二十二日
四時間の授業。のち自動三輪を捕まえ寺院を訪れる。大きな寺院である。敷地に入る前に履き物を脱がねばならない。私はズボン下の丈が短いと云う訳で大きな腰布を巻かれた。聖堂の手前には敷石がうねうねと五十ほど並んでいる。敷石が始まる処で参詣者たちは呪文の書かれた紙を渡される。呪文は十秒ほどで読むことが出来る。そして呪文を唱え終わると次の敷石へと進む。呪文を唱える。一歩進む。呪文を唱える。一歩進む。詰まり私たちは呪文を奏でる大きな機械の一部となる訳である。かつて私は神社に順路があることに気を止めて、この人の流れには何か意味があるのではないかと考えたことがある。してみるとあの空想も突飛なものでなかったと云えよう。寺院の出口ではカレー風味の粥が振舞われる。私が学生であった頃インドを旅した友人が話して呉れたことがある。彼は連日のカレーに嫌気がさし、或る日茶店で林檎パイを頼んだ。すると給仕が持って来たのは林檎カレーパイであったと云うのであった。私はそれを思いながら、頼みもしないのに食わされることもあるのかと一人で笑いを堪えた。
 
九月二十三日
夕刻宿にいる仏教徒の男とミラノから来ている男と植物園へ行く。帰路の自動三輪を駆るのはお爺さんのような声を出す陽気な五十男である。この町はどうかねと爺さんが訊ねる。人は親切で住み良いですとミラノが答える。すると爺さんは、この世は鏡のようさね、自分が町を好きになれば町からも好かれるし、自分から親切にすれば親切にされるさねと云い、がはははと笑った。爺さんはよく笑い、愉しそうに働く。二十五年と云うもの毎日自動三輪を駆り続け五十にならんとする男の言動であることを鑑みれば尊敬せねばなるまい。
 
九月二十六日
二十九日目。クリケット。学校。博物館掛けるの二。今日は日記より漏れたものを幾つか並べて見ようと思う。一。相変わらず隙あらば牛乳紅茶を飲んでいる。今日などは冷たい雨が降っていたけれどもそんな中で飲む牛乳紅茶もまた格別である。兎に角牛乳紅茶を飲んで幸せにならないと云うときがない。二。数日前同宿しているインドの男が紙を持って遣って来た。彼は私に娘の名前を告げ、日本の文字ではどう書くのかと訊いた。私は紙に書いて遣った。すると彼はこの文字を刺青にすると云い出した。私は大いに慌てて、私の筆は確かなものではないからどうか改めて調べ直して欲しいと訴えた。けれども彼はこれが良いのだと云った。私のあのふにゃふにゃとした文字が人の体に彫られるのかと思うと考えるだに恐ろしい。三。この町の地下列車は二年ほど前に出来たばかりである。電動階段なども古いものではない。いつであったか百貨店で私はこんな風景を見た。十人ばかりの大家族が電動階段に乗り始めたが、二十になろうかと云う娘さんが電動階段の前で立ち止まり暫くそれを眺めていてから、ああ私乗れないわと両手で顔を覆った。やがて家族が降りて来て、みなで笑い合ったりしながら娘さんの手を引いて階段を上がって行った。四。今朝両替商へ赴くと掃除婦が濡れ雑巾で床を綺麗にしている処で両替商の三人は外でぼんやりしていた。やがて掃除婦は仕事を終えて去って行った。そのまま暫く待っていたが両替商の三人は動こうとしないので、これは何の時間ですかと訊ねて見ると、床が乾くのを待っているのよと女職員が云った。ははあそうですかと云う訳で私たちはそのまま暫く外でぼんやりしていた。五。昨日私は屋台で変わったものを食べた。それは中が空になった小さな揚げ物の球で、玉葱やら豆やらを詰め、最後にカレーを流し込んでばりばりと食べるのである。今日それを先生に話していると、あのね、私たちがカレーと呼ぶのはどろどろとしたもののことで、あのしゃばしゃばとしたものは水と呼ぶのよと云った。インドの人たちは水気の多いカレーのことを水と呼んでいるのである。六。数日前に同じ先生がこんなことを云った。先生と云うものは梯子のようなものよ、生徒たちはどんどん登って行くけれど私たちはいつまで経ってもこの場所にいるのよ。私はこの短いけれどきゅうと胸が締め附けられるような言葉をこれから先折に触れて思い出す気がする。七。この日記を書く前に同宿している修行僧が、君の好きな英語の単語は何だいと訊ねた。君のはと訊ね返すと、難しい質問だねえと暫く考え込んだのちに、幸運かなと答えた。私は、好きな言葉と云う訳ではないけれども先生と話していてよく遣う言葉は本質かなと答えた。面白い質問である。
 
九月二十九日
現在二十四時。空港。インドを経つ前である。眠くて仕方がない。昨夜道で野良犬が立派な食事をするのを見た。ポルトガルでは犬や猫のために大きな弁当箱を抱えて来る人や、車でわざわざ食べ物を持って来る人を見た。この町にもそうした優しい人たちがいるようである。今朝は見るからに辛そうな食べ物に蟻が群がるのも見た。してみると犬にしても蟻にしてもこの国の辛い味附けに親しんでいるようである。今朝向かいの家に住む五十半ばの男がぴくりともしないままに病院へと運ばれた。学校より戻って見ると、男はそのまま亡くなったと云う話である。とりわけ哀しむ様子もなく葬儀の椅子を並べたりなどしているのでこの諦観は何だろうかと思っていたが、あの男は酒びたりで家の荷物であったのだと宿の主人が教えて呉れた。私はインド最後の日に死体を一つ見せられて、この地を後にする。
 
九月三十日
台風のために飛行機が飛ばないと云う訳でシンガポールの宿にいる。三日ほどして日本へと帰る。同じ宿のジャカルタの男が町を案内して呉れ、噴水の見世物などを見る。昨日までとは余りに違った世界で妙な心持ちがする。この町の自動階段は日本の二倍ほどの速さで人を運んで行く。あれがこの町の精神を表している気がする。
 
月一日
植物園、中国人町、賭博処を廻る。賭博では負ければ金を失い、勝っても運を遣う丈で良いことは何もないので、勿論賭けることはない。或る中国の男はルーレットの盤がまわるのも見ずに自分の気の流れだか星の動きだか知らないが何やら表を眺めながら手札をせっせと置いていた。最上階は窺い知ることが出来なかったけれども恐らくは大富豪が遊んでいるに違いない。
 
月十二日
日記を附けない日が続く。インドから戻り、現実に立ち返り、一体私は何をしているのだと心が揺れる日日である。毎日そうした心の動きと戦わねばならない。これも作家の仕事であるか。ふむ、そうかも知れぬ。私はそんなことを誰かに云った憶えがある。インドで読み始めたルソーを二日前に読み終えた。今日読み終えたのはゲーテ『若きウェルテルの悩み』である。
 
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上井 紙縒 (うわい・こより)
日記を綴ること十七年。数年前より本を読む日日を送る。時折異国の町に暮らす。
 
上井紙縒日記
これまでに綴った日記の殆んどは伏せている。この春、これまでの十七年に及ぶ日記を編み直す積もりでいる。
 
やねうら
客人を招いての閑談をラヂオ局の電波を遣い、夜更けにひっそりと流す。全十四回。
 
われおかき同好会
友人との雑談を、煎餅工場で売られる不揃いな煎餅のように、気まぐれに配信する。
 
ラヂオ生放送
奈良の小さなラヂオ局でへらへらと相槌を打つこと百余回。四時間の生放送で二年間助手を務める。
出演104回目 出演最終回 8分
出演95回目  練乳 6分
出演91回目  スーパームーン 5分
 
 
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